明治 |
4 |
1871 |
阿太峯地区の開墾始まる |
8 |
1875 |
松戸覚之助生まれる |
10 |
1877 |
薬水地区で開墾が始まる |
11 |
1878 |
佐名伝地区で開墾始まる |
奥徳平が生まれる |
18 |
1885 |
フランスで石灰硫酸銅ボルドー液が開発される |
21 |
1888 |
松戸覚之助が新種の梨を発見する |
31 |
1898 |
松戸覚之助が育てていた新種の梨が初めて実る |
33 |
1900 |
奥徳平が札幌農学校を卒業する |
35 |
1902 |
奥徳平が大淀村薬水に入植し果樹などの栽培を始める(園名 薬水園) |
阿太峯に青果市場、薬水三本松付近に市(いち)がたつ |
37 |
1904 |
渡瀬寅次郎と池田伴親により廿世紀梨梨が命名される |
鳥取県に廿世紀梨梨が導入される |
37〜38 |
1904〜1905 |
日露戦争 |
38 |
1905 |
薬水園が凱歌梨を売り出す |
43 |
1910 |
薬水園は凱歌の商標を登録し全国に向けて苗木の予約分譲を始める |
大正 |
始 |
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佐名伝・薬水に園芸組合が設立される |
1 |
1912 |
吉野軽便鉄道が開業する 吉野口〜吉野(現代の六田)間 |
2 |
1913 |
吉野軽便鉄道が吉野鉄道に社名が変更される |
3 |
1914 |
開墾記念碑(彰功碑)が建立される |
4 |
1915 |
薬水園でパラフィン紙を果実袋として使い始める |
5 |
1916 |
果樹農家でパラフィン紙を果実府袋として試験的に使い始め効果を |
9 |
1920 |
村岡商店がパラフィン紙の研究園を薬水地区の梨園に開設し研究を始める |
13 |
1924 |
吉野鉄道福神駅が開設される |
14 |
1925 |
鳥取県でパラフィン紙を果実袋として使い始める |
薬水園芸実行組合から献上梨が出荷される |
昭和 |
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1927 |
奥徳平が死亡する(50歳) |
果樹農家が凱歌梨の商標を登録する |
大和勝利梨出荷組合が設立される |
3 |
1928 |
奥家の家族が薬水園を離れる |
薬水園の所有者が元日本紡績副社長福本元之助にかわる
生産管理人は黒田元三郎 |
4 |
1929 |
佐名伝、薬水峯に電灯線が付設される |
佐名伝の梨園で県農業試験場が梨ユズ肌対策の試験を行う |
吉野鉄道大阿太駅が開設される・吉野鉄道が大阪電気軌道に合併する |
5 |
1930 |
佐名伝園芸組合が奈良県主催園芸博覧会に梨などを出品する |
9 |
1934 |
松戸覚之助が死亡する 室戸台風襲来 梨栽培に多大な被害を受ける |
10 |
1935 |
松戸市で発見された廿世紀梨の原樹が国から天然記念物の指定を受ける |
16 |
1941 |
大阪電気軌道が関西急行鉄道にかわる |
18 |
1943 |
第二次世界大戦の戦時下、梨も食料出荷統制される |
19 |
1944 |
関西急行鉄道が近畿日本鉄道にかわる |
20 |
1945 |
松戸市で保存されていた廿世紀梨の原樹が空襲を受ける |
22 |
1947 |
廿世紀梨の原樹が枯死する |
24 |
1949 |
動力噴霧器が普及し始める |
25 |
1950 |
ジェーン台風襲来 梨栽培に多大な被害を受ける |
27 |
1952 |
大阿太村佐名伝が大淀町に分村合併される |
31 |
1956 |
トリカ果実袋を使い始める |
33 |
1958 |
コバヤシ果実袋を使い始める |
34 |
1959 |
観光梨狩りが始まる・伊勢湾台風襲来梨栽培に多大な被害をうける |
36 |
1961 |
第二室戸台風襲来 梨栽培に多大な被害を受ける |
41 |
1966 |
動力線の敷設によりモーター式動力噴霧器が普及し始める |
42 |
1967 |
佐名伝・薬水の園芸組合が統合され大淀町果樹組合として設立される |
果実袋に小袋が導入される・梨出荷にダンボール箱が採用される |
43 |
1968 |
故 奥徳平が農林大臣より表彰を受ける |
44 |
1969 |
畑地灌漑用水施設が完成する |
47 |
1972 |
果樹組合章を一般募集する |
ダンボール箱の梱包材としてパック詰め方式が採用される |
50 |
1975 |
開墾百年祭行事が行われる |
54 |
1979 |
福島県の円谷正秋先生を講師に剪定技術講習会が開催される
長果枝剪定が普及し始める |
59 |
1984 |
イベントで梨の文字入れが取り入れられる |
平成 |
10 |
1998 |
台風7号襲来 梨栽培に多大な被害を受ける |
16 |
2004 |
エコファーマーの登録が始まる |
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