3. 二十世紀梨の発見と松戸覚之助 |
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廿世紀梨梨は、明治21年千葉県東葛飾郡八柱村(現松戸市)で松戸覚之助
(1875〜1934年) 二十世紀梨は、明治21年千葉県東葛飾郡八柱村(現松戸市)
で松戸覚之助(1875〜1934年)によって発見された偶発実生である。
当時13歳の覚之助少年は、春のある日、分家の石井佐平宅に立ち寄った帰り道、
ふと塵捨て場に実生の小さい梨の樹があるのに目をとめた。それが今まで見たもの
とはどこかちがった品種のような気がしたので、佐平に話してこの樹をもらい
受け、八柱村大字大橋字北大塚の父が経営する果樹園(錦果園)内にそれを
植えた。植えつけた当時、この樹はすでに数年生のものであった
その後、この梨の樹は「黒斑病」に弱く、樹は思ったよりも育ちが悪かった。
管理に苦労はつきまとったが断念することなく、この樹はきっと美しい実を
結ぶにちがいないと信じ、なおも手入れを続けた。その甲斐があって植え
つけてから10年を経過した明治31年9月上旬になって、初めて成熟した
果実を手にすることができた。その果実は上品な甘さと、したたるほどの
水気をもっている。
従来の品種より優れていることに喜んだ松戸覚之助は、さっそく東京帝国大学
をはじめ、そのほかの専門家に送って批判を乞うた結果、その梨は品質、外観
ともに優秀であることが認められ、とくに、当時の園芸愛好家であった
大隅重信侯爵、本草学者で明治の果樹園芸会の恩人である田中芳男
男爵らに寄贈して、絶大な賛辞がよせられた。
しかし、この梨にはまだ特別な品種名がなかった。そこで、そのころ青梨の
優良品種であった「太白」にあやかって「新太白」と呼ばれていた。
その後しばらくして、本種に対して将来性を賞賛し愛好した種苗商、東京興農園主
瀬寅次郎農学士は東京帝国大学農科大学助教授池田伴親に相談のうえ、「この先、右に出るような品種もなく、20世紀時代を背負って立つに違いない」との思いから
明治37年に「二十世紀梨」と命名された。
明治38年5月、渡瀬寅次郎の経営する東京興農園の興農雑誌に本種の優秀なことが
掲載発表されるやいなや、たちまちにしてその名声は関係者の間につたわり、
各府県農務課、県農会そのほか熱心な篤農家など視察に来園するものがあとをたたず、
そのつど苗木や穂木を懇望された。そこで、松戸覚之助は毎年数千本の苗木を養成し、
広く一般栽培者と種苗業者に配布したが、養成本数の一割は全国の梨栽培篤農家に
無償配布して、試作を乞うという熱心さであった。こうした優秀な品種をもちながら
これを独占することなく率先して広く開放した松戸覚之助の人柄こそが、本種の急速な
普及をうながし、まさに二十世紀梨時代の発端をつくった直接の原因である。
また、こうしたものにはとかく本家争いが起こりがちなものであるが、二十世紀梨も
の例にもれず、大淀町薬水で同種の梨栽培をはじめていた奥徳平との間に複雑な問題を
生じていた。
二十世紀梨が、日本梨の中の優秀なものであるとして一般に認められるようになったのは、
明治41年東京新宿種苗株式会社で開催された園芸品評会で、他品種を圧して特等賞
を授与されたことにはじまる。
さらにその後、明治43年農商務省農事試験場の手で英国ロンドン市にて開かれた
日英大博覧会に、日本の果実代表として出品し、東洋種の梨として最高名誉賞を獲得した。
また年々各地の品評会、共進会、博覧会などに出品されて幾多の褒賞を受けるなど、
新品種「二十世紀」は関心のまととなった。
明治21年に発見されて松戸覚之助の錦果園に移植された二十世紀梨の原木はその後、
昭和10年三木泰治の指導によって、当園主松戸覚之助(二代目)が、天然記念物指定の
申請書を文部省あてに提出した。
さっそくその年の二十世紀梨の収穫期に理学博士三好学ら文部省天然記念物審査員一行が
来園し評細に原木について調査した。続いて、梨育種研究家の菊池秋雄が来園するなど
調査は具体的にすすみ、昭和10年12月24日文部省告示第427号をもってつぎの
ように天然記念物として正式に指定され、石原千葉県知事から二代目松戸覚之助に伝達。
同時に原木の保存に対する注意をあたえられた。
記 |
一、名称ハ二十世紀梨原樹トス
一、指定地積ハ東葛飾郡八柱村大字大橋字北大塚九百二十五番地
民有一筆内実測一畝二合五勺トス<br>
向後本天然記念物ノ保存ニ関シテハ遺漏無キ様
特ニ別記事項ニ留意相成度此段通牒候也 |
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二十世紀梨原木の一部と二十世紀梨誕生の地記念碑
わが国梨界の王者として君臨する二十世紀梨は初めてこの地に生まれこの地に育った
すなわち先代松戸覚之助翁が苦心の賜ものとしてこの地から得た成熟果を明治三十七年秋
二十世紀梨と命名し世に贈ったのに始まる以来果実の水気と甘味は賞揚され
栽培もまた全国に広がった
いっぽう二十世紀梨原樹は昭和十年に天然記念物指定をうけたが二十二年に惜しくも枯死した
ここにこの地を記念して史跡に指定し合せて翁の偉業を永く後世に伝え残すために
この碑を建てるものである
昭和四十年三月 |
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惜しくも、発見者初代松戸覚之助はこの指定に先だって昭和9年6月2日永眠し、この指定を
知ることはなかった。原木は松戸覚之助一家の手あつい管理によって生育を続けた。
ところが、昭和18年以降、太平洋戦争は苛烈の一途をたどり、ついに原木の管理にも手が
とどかず、樹は衰弱しその極に達した。昭和20年第二次世界大戦中、梨棚全部が近くにある
工兵学校の火薬庫とまちがえられ、徹底した爆撃を受けて梨園は全滅した。
原木も被害を受け、錦果園は戦争とともに廃業の憂き目を見ることとなった。そして、
昭和22年ついに原木は枯死してしまった。
しかしながら、このことは人々の記憶から忘れられることなく、昭和40年3月に松戸市
教育委員会は、原木の場所(現松戸市二十世紀ヶ丘)に「二十世紀梨誕生の地」の記念碑を建立した。 |
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さらに、平成14年11月に鳥取県より「二十世紀梨感謝の碑」が寄贈、「二十世紀梨誕生の地」
の碑の横に建立され、松戸覚之助の功績は歴史に名を刻まれることとなった。枯死してジンになった
原木の一部は現在、鳥取市湖山町東5丁目にある木乃実神社にて、御神体として祀られている。 |
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