大淀町果樹組合/奈良吉野・大阿太高原の梨の栽培・品種・歴史と活動の報告


              

大淀町果樹組合/奈良県吉野郡・大淀町佐名伝-大阿太高原の梨の栽培・品種・歴史と活動の報告




















梨栽培技術の沿革  ※このページの最後に各レポートへのリンクがあります
大正4年・・・・全国的に黒斑病が発生しており、
         果実袋に新聞紙を使用していたが病気の予防にならなかった。
        この頃、薬水園では全国農事試験場に先駆けて果実袋に
        パラフィン紙を使用して 黒斑病対策を行って成功していた。
大正5年・・・・果樹農家でもパラフィン紙を果実袋として試験的に被袋し始める。
大正8年・・・・果樹農家ではパラフィン紙の効果を上げるため
        大阪市東成区今里の村岡商店に依頼し研究を始める。
大正9年・・・・村岡商店は果実袋の研究に大前禎造の果樹園(現在の龍水園)を
        研究園にして始める。地元農家も協力し、
        より理想的なパラフィン紙を完成させる。
        その後、奈良県農業試験場にも使用を願い、
        日本園芸雑誌にて黒斑病予防にパラフィン紙を用いる技術が掲載された。
昭和4年・・・・二十世紀梨のユズ肌病予防対策の研究が県農事試験場により
        山口房太郎の農園(現在 山口年昭・真田園)、
        後年、田中昭朔農園(現在田中伸幸・百華園)で行われた。
        結果、梨の台木が山梨台より満州豆梨台の方ほど
        ユズ肌病が少ないことがわかった。
        このころ、果樹農家では、パラフィン袋のミシン縫い
        (後になってニカワで貼る)や、新聞紙の二重袋貼りを
        冬場の仕事として行っていた。
        また、パラフィン袋に綿を使って袋掛けを行い、
        コナカイガラムシ等の防虫対策を行っていた。
        佐名伝、薬水峯に電燈線が布設される。


昭和6年・・・・薬水園では動力噴霧機が導入され始める。
        当時は手動式噴霧機や背負い式噴霧機が主流であった。   
昭和7年・・・・荷造り方法は、薬水の梨園で行われていた方法が取り入れられ
        県内各地に広がったと思われる。
        その方法は、包装紙を使い、もくめんで石炭箱に詰め、
        等級を9等級制にして表示するやりかたであった。
昭和20年・・・肥料は油かす、大豆かす、にしんの粉末や数の子、
        骨粉、牛糞などであった。
        以前(戦前)堆肥(生糞に切った稲ワラを混ぜた未熟堆肥)
        などが使われていた。また、化学肥料は硫安、
        しょう安、石灰チッソなどである。
昭和31年・・・JA全農鳥取の果実袋を使用し始める。
        初めは新聞紙とパラフィン紙の果実袋であった。
昭和32年・・・人工交配に梨の花粉を採取し筆で行うようになった。
昭和33年・・・長野県小林製袋産業の果実袋を使用し始める。
        「ワンペア止め無し」を使用していた。
        このころから管理機(小型耕耘機)が使用され荷物の運搬や
        畑の打ち返しに使用され作業の省力化が図られた。


昭和41年・・薬剤散布の動力に発動機(エンジン動力)を使用していたが、
       故障がちなため、それに変わり電力モーターが普及し始める。
昭和44年・・畑地潅漑用水施設が完成する。
       これにより夏場の少雨対策が万全になり
       安定した収穫ができるようになった。
       梨栽培技術向上のため、鳥取大学農学部の米山寛一教授を迎え
       梨栽培技術の講義を受ける。


昭和45年・・薬剤散布にスピードスプレヤーの導入が始まり、
        作業の省力化がすすんだ。
        また、管理機に変わりトラクターが導入され始め、
        打ち返しや除草などの畑地管理作業が効率よくなった。
        このような大型機械の導入により、梨畑の棚も竹や木の杭で
        支える方式から金属柱を使用した吊り棚方式に変わり始める。


昭和50年・・樹園地農道が整備され、梨山への交通の便が良くなったため、
        消費者がマイカーで来園しやすくなった。
        人工交配用の花粉を採取するのに葯採取器(花粉取器)や
        開葯器(花粉ふかし器)が使われ始める。


昭和52年・・ハンマーナイフモアが導入され始め、除草作業の省力化がすすんだ。
       梨の選別に自動選別機が導入され始め、出荷作業が大変省力化された。
昭和54年・・福島県より円谷正秋先生を招き剪定技術講習会を開催した。
       このころから剪定方法が短果枝剪定から
       長果枝剪定を採用する農家が増えていった。
昭和55年・・小型ユンボを使用して暗渠排水が行われるようになった。
       また、奈良県農業改良普及所の指導により「土づくり」に
       完熟堆肥の投入がさかんに行われるようになった。  
昭和56年・・ヤガ対策に防蛾黄色灯の設置が始まる。
昭和58年・・傾斜地園において薬剤散布にスプリンクラーが設置される。
昭和60年・・梨栽培技術向上のため、
       鳥取大学農学部の教授を迎え梨栽培技術の講義を受ける。
平成4年・・・早生梨の早期出荷を目指し、簡易ハウス栽培を始める農家が現れる。
平成7年・・・バッテリー式やコンプレッサー式の剪定ハサミが普及し始める。



除草用に乗用モアが導入され始め、除草時間や作業効率が上がったため、
今までの清耕栽培から草生栽培への関心が高まる。
自動潅水設備が導入され始める。

平成10年・・鳥取大学農学部の教授が吉野にこられたので、
        梨栽培技術のミニ講習会を行う。
平成14年・・コンフューザーの導入が始まる。     


平成16年・・エコファーマーの登録が始まり、
        より安全・安心な果樹栽培への関心が高まる。

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【奈良県果樹研究会レポート】和ナシのユズ肌・石ナシ対策  福長信吾
【奈良県果樹研究会レポート・昭和49年】

吊り棚によるナシ棚の改良  中吉野農業改良普及所 前 悦久

【奈良県果樹研究会レポート】
ナシのせん定を考える 長果枝せん定  岩本 和彦


【奈良県果樹研究会レポート・昭和39年】なしの生理 理想的な枝の伸び方

【奈良県果樹研究会レポート】
ナシ三水の整枝せん定        福長 信吾


【奈良県果樹研究会レポート・昭和41年】
ナシ栽培の改善点     中吉野農改技師  岩本 賢昭


【奈良県果樹研究会レポート】
梨栽培の諸問題について   鳥取果試栽培科長 古田 収


※掲載する資料は奈良県果樹研究会が発行した「月ごよみ」及び「奈良県の果樹」より抜粋したものです